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IDC 2010 参加学生レポート

参加学生報告レポート

冨永光志 (工学研究科機械工学専攻 修士1年)

1.応募動機

機械情報工学科のアドバンストワークショップを履修して,NHKロボコンを経験したことがあり,ものづくりが大好きな私にとってIDCの出場できる機会があると知った時,嬉しさと興味が湧いてきました.外国の学生とものづくりができること,いま経済成長で注目を浴びている中国が同時に知ることができるとなると居ても立ってもいられなくなり,全学選考に応募しました.

2.選考

プレゼンテーションのスライド
プレゼンテーションのスライド

選考は1枚スライドを作成しプレゼンテーションして質疑応答を行うものでした.プレゼンテーション・質疑両方とも英語です.本番でものづくりの経験とコンテストへの意気込みについて話しました.質疑応答でだいぶ応答に困ってしまいましたが,前向きに答えた結果,選考に合格しました.夢が叶った瞬間でした.学部2年の時にNHK大学ロボコンに出場した経験がどれだけ活かせるかすごく楽しみでした。また,期待と不安で胸が一杯でした.海外経験は全くなく,初めての外国でしかもロボットを世界の学生達と作ることが出来るとわかってくると,頭の中は英語能力がこのままでは大丈夫か不安になりました.

 

3.準備・会場入り

会場の上海交通大学
会場の上海交通大学

出発までの間,時間の間をぬって畠山先生に英会話の特訓を毎日してもらいました.
1日に30分,ノートに想定質問を書きながら英会話をするものでした.地味な準備でしたが,本番でいきなり英語をしゃべるよりも,英語で物を考える良い訓練になりました.
8月5日ついに日本を出国,2時間30分のフライトで上海につきました.結構近くて驚きました.会場の上海交通大学まで車で移動し,翌日から始まるコンテストに備えます.

 

 

4.チーム分け・構想設計と発表

チームはくじびきで分けられました.私はダークグレーチーム所属になり,チームメンバーは,中国人,韓国人,ブラジル人,シンガポール人の5人となりました.チームの共通語はもちろん英語です.しかも翌日に控えている設計構想発表に備えて,1日でマシンデザインを完了させなくてはなりません.
いきなり難所に突入です.フィールドの寸法が書いてある図面が渡され,使えるパーツのリストアップから始まりました.設計の議論はこのようにして行われました.

~会話例①~
「橋の高さが何ミリだから,下に潜るために玉の回収機構の最大値は何ミリにしないと…」(中国)
「この機構は,材料にダンボールとプラプレートを使った方が確実だと思うよ?」(ジェスチャーを交えながら僕が)
~会話例②~
「ボールをとった後,陸揚げして運ばなきゃ.ここの機構を考えようか.」(ブラジル)
「以前似たものを作ったから3DCADで設計・シミュレーションできるよ!」(韓国)

など,すべて本格的な技術英会話です.知り合って数時間も経っていないのに・・・
英語はさほど苦手ではないですが,最初は意思疎通がなかなか辛いです.外国は初体験で本格的な技術英会話だったので緊張と同時に不安が付きまとい,なかなか話しかけるのが難しかったです.
設計がある程度出来上がったあと,翌日に先生方の前でプレゼンテーションをしました.私は,前日経験した英会話のショックであまり先生の前で話せなくて悔しい思いをしました.

設計議論の様子 ダークグレーチームの構想発表
設計議論の様子 ダークグレーチームの構想発表

5.ものづくり

ダークグレーチームは川の中に入ってボールを回収する「回収機」,回収したボールを桶に入れる「陸揚げ機」の2台をつくることになりました.私は回収機と陸揚げ機の両方の製作を手伝うことにしました.必ず加工で困ることが出てくると思ったのでNHKロボコンで培った加工技術を活かすチャンスだと考えました.旋盤やボール盤,切削工具を駆使してたくさんの部品を作りました.自分が丁寧に作った部品をチームメイトに見せたとき,”perfect job!”と言われ褒められることがありました.「ワークショップで培った技術が生きた!」と感じることができました.また,ロボットを組み立てて完成に近づくと無事に動くかどうか不安になりました.

旋盤加工の様子 
旋盤加工の様子
構想を始めたころ,構想通りにロボットができるとは正直考えていませんでした.実際に組み立て改良を行い,現実を構想に近付けて行くとき「僕らのチームはやればできる」と確信してロボットをなんとか完成させることができました.

回収機 陸揚げ機
回収機 陸揚げ機

6.コンテスト本番

完成した機体を会場に持ち込み,いよいよコンテストが始まりました.正直勝てると思っておりませんでしたが,2回勝つことができベスト8まで行きました.自分たちの作ったロボットが思い通りに動き,得点をしたとき今までの困難が報われ達成感に浸っていました.この達成感はいまだかつてない程大きなものでした.
仲間と勝利を祝っていたとき,「自分たちは良いものを作った」と強く握手をし,チームの一体感は最高潮に達しました.最初はロボットを完成させることができるかもとても不安でしたが,約2週間でロボットを構想して作り上げることを経験し,なおかつ成果を出すことができて幸せでした.

試合で勝利
試合で勝利
7.コンテストを終えて

IDCの仲間とはFacebookや電子メールを用いて交流を行っています.皆,思い出が沢山あるようで写真を交換するとすぐにコメントし合っています.IDCに参加した経験は一生の宝物です.今でもあの二週間が夢ではないかと考えることがありますが,お土産として買ってきた中国語の本を見ていると思い出が蘇ってきます.先日,工作機械の見本市に行ってきました.この時,台湾や英国など外国の会社を訪問する機会があり.外国人と話すことがありました.以前の私ならなるべく日本人と話すように努めましたが,自分から英語で話しかけるようになっていました.
「IDCを経験した後の可能性は計り知れないものがある」と強く感じました.

8.謝辞

コンテストの運営と学生の引率をしてくださった釜道紀浩先生,英会話の指導と準備を手伝ってくださった畠山省四朗先生,最後にコンテストに参加する機会を与えてくださったロボット・メカトロニクス学科の皆様には心から御礼申し上げます.他専攻の私に電機大の代表としてIDCに参加させてもらったご縁を決して忘れません.

田島有祐 (未来科学研究科 ロボット・メカトロニクス学専攻 修士1年)

8月5日、期待と不安を胸に日本を飛び立ち上海に到着しました。空港からホテルまでの移動中、初めての外国という事もあって見るものすべてに新鮮さを覚えました。移動中に驚いたのが、中国の交通ルールです。中国人の性格なのか分かりませんが、皆が我先にと車を運転していて、遅い車やチョット出遅れた車、バイクや歩行までも容赦なくクラクションを鳴らしていました。これが公安(警察)の車も同様なので、中国では強いもの優先って事なのでしょうか!? この辺りが日本とだいぶ違う感じです。

滞在先の上海交通大学内のホテルに昼ごろ到着したので、午後に敷地内を散策しました。敷地がものすごく広く、端から端までとても歩いて行ける距離ではないので、大学内を無料バスが巡回しています。バスには乗っていませんが、ホテル周りの売店等を確認し、中国にしか売ってなさそうな飲料を買いました。味は、…でした。夕方になって日本人メンバー全員と合流し、中国式パーティーディナーを食べました。口に合うもの半分、合わないもの半分で選び選び食べた感じです。

料理1 料理2

翌日の6日は、チーム・大会ルール発表が行われました。私はClayチームとなり、メンバーは、ブラジル、シンガポール、タイ、中国、日本の計5人です。ここにきて今までそうでも無かった不安が押し寄せてきました。多少の不安を抱きつつ、初のチーム全員によるブレーンストーミング。各人の自己紹介を終え、シンガポールとタイの英語が分かりにくく更に不安が募りました。シンガポールとブラジルでペラペラ話しており、その話を理解するのがやっとで、自分から積極的に主張できなかったのが残念でなりません。図とジェスチャーで何となく話の全貌が分かりその回は終わりました。Clayチームは2台のマシン、玉を回収するマシンと運搬するマシンを作ることになりました。玉を回収するマシンは川に入り縦に回転する板を回転させ荷台に玉を乗せ、荷台を岸に押しつける事で玉を散乱させる仕様です。

マシン設計
岸側のマシンは底にスリッド上の網(玉を押し入れるとすり抜ける)を取り付けた籠で、岸に散乱する玉を回収します。籠に取り付けたアームを縦に回転させ、籠をひっくり返して、自陣のバスケットに投入する仕様です。これらの構想を次の日に説明する発表があるので、その発表資料をオープニングパーティー後に作成する話をしてこの回は終わりました。パーティー中は、アルコールと変なテンションのせいで、皆疲れてしまい、発表資料を全く作らないままその日は解散。朝早く来て作ることになりました。

ディナー7日はマシン概要の発表があります。Clayチームの皆は9:00までに集合し、発表の9:30頃までの30分で発表資料を仕上げました。遣っ付けの資料でしたが、ブラジルの人がうまく説明してくれて安心しました。ですが、他人任せで良いのかと少し考える節もありました。そして、この日からランチ・ディナーチケットを毎日貰うようになりました。一回10元まで購入できるチケットです。そのチケットを使って学生食堂で食するわけですが、ここの料理はまさに中国庶民の食事です。適当に目についた物だけを取り食べましたが、はずれが多く、他の日本メンバーも微妙な顔でした。この食事が2週間弱続くと考えると思いやられる感じでした。

7日午後~15日は製作期間です。初めの3日間はチーム全員で2台のマシンの部品を製作していきました。製作期間も中盤が過ぎチームメイトと仲良くなり、各国人の特徴が見えてきました。ブラジル人は陽気で情熱的だが、冷静さを忘れていない。シンガポール人は平凡な日本人と同じ。タイ人は礼儀正しく、加工が上手。そして特に印象的だったのが、中国人。彼の性格かも知れませんが、全てにおいて適当でした。彼はよく「Maybe OK!」と頼りない事を連発していて、流石に呆れたのか、タイ人が「Always Maybe!」と叫んでいました。そんな彼らのやり取りを眺めつつ、私はこのままではヤバいと感じるところで、アドバイスやアイデアを提供して誤った方向に事が進まないように注意していました。

チーム全体としての私の立場は、要所の部品の製作と細部の調整、困ったときのアイデア提供等、裏でチームを支える役割でした。私は木工や紙工作が得意なので、メンバーが金属部品の加工や配置方法で困っているところを木工・紙工作の技術でカバーする事も多々ありました。しかし、段ボールの強度を信じてもらえなくて、それの説明に苦労しました。岸側マシンの籠は私が特に力を入れた部品です。最初は金属フレームを作りそれに板を張り合わせる方法で作ろうとしていましたが、私が段ボールと少量の木枠で十分と言っても信じてもらえず、実際に作ってから見せたら「Grate!」と言われ、ホッとしました。

そして、岸側マシンのプロトタイプが完成し動作チェックをしました。籠に取り付けたアームをギアドモータに直結しアームが持ち上がるか試した結果、案の定持ち上がらず、改良を余儀なくされました。私は、ギアドモータのトルクが少ないと考え、プーリーを用いて変速してトルクを上げたり、スプリングを用いて持ち上げたりする構造を考えていましたが、彼らは籠の運搬方法が良くないと考え大幅な構造変更を仕様としていました。私が思案している矢先、既に彼らの意見は一致し私の力作の籠は破壊されていました。残念無念。製作期間が残り3日しかないのに大幅な構造変更して大丈夫かと不安を抱えました。

上海滞在も1週間が過ぎ、食事が合わず腹を下す日本人メンバーも居ましたが、私は学食の食事にも慣れてきて、初めは抵抗のあった白米も普通に食べられるようになりました。そして、目利きもついて食べられそうな料理を選ぶことも出来るようになりました。すると、段々と学食の食事にも飽きが生じ始め、学内のイタリアンレストランに行くことが増えました。ここでは、英語が全く通じず、中国語も分からず、オーダーミスも何度かしました。2,3回行くと注文の要領を掴む事が出来、オーダーミスせずに食事することも出来るようになりました。中国での食生活を通じて、環境に柔軟に対応する力の大切さを改めて感じました。

この頃から、川側マシンはブラジルとシンガポール、岸側マシンは日本と中国、タイで製作することになりました。チームに分かれてからは、中国人の適当さが本領発揮でした。機構としては問題無いが、ジョイント部の整合が適当なためグラつき、何回か使っている内に壊れそうだったので、細かな整合の調整を私が行いました。この辺りは上手に連携できたと思います。岸側マシンの改良点は、籠の高さを低くし川側マシンの荷台から直接ボールを受け取る機構にしたことです。(実は大会当日まで籠の高さを低くした理由が分からず疑問を抱いていました)
製作期間も終盤を迎え翌日に予選控える最終日、どのチームも焦りが募っていました。Clayチームは、岸側マシンは完成していたが、川側マシンに重大な問題が見つかり、私たちも焦っていました。川側マシンの問題は荷台が重くて持ち上げられない事でした。その為、荷台を作りかえることになりましたが、既に最終日の夕方を迎えようとしている頃でした。金属や木材を加工して使うと時間がかかるので、紙工作のみで作ることになりました。なんとかこの日中に完成し、安心しました。

マシン1 マシン2

予選大会当日、私は岸側のマシンを操作する役を担っていました。この時、ブラジルの人からボールの受け渡し方法について細かく聞かされていましたが、何となくしか理解できず、焦りを感じていました。実際に大会が始まり、理解した通りにマシンを操り待機していたところ、この時なって籠の高さを低くした理由とボールの受け渡し方法を完全に理解しました。それからの操作は慎重に焦らず確実にと心がけていたので、他のチームは焦ってマシンを壊したり、トラブルで不動だったりと得点を入れられない中、目立った操作ミスもなく得点を入れ勝ち進みました。チームメイトからは素晴らしい操作だったと褒められ、日本人気質をアピール出来たかも知れません。おかげで予選ではTOP4入りを果たし、上海万博のステージで本選をする事になりました。

チーム写真
16日、17日はDay Offなので、上海観光をしました。私は中国人の彼と上海観光を約束していましたが、フランスの先生が企画した蘇州観光に行くと彼は言い出し、結局一人で上海観光をする事になりました。私は、16日に浦東、豫園、徐家匯を17日に上海万博を観光しました。何処も彼処も人だらけでウンザリでした。

上海観光1 上海観光2 上海観光3
上海観光4 上海観光5

18日は大会本選。マシンの最終調整と少量の改良を加えいざ準決勝。今まで通り落ち着いて操作して、なんとか勝ち進みました!TOP2入りです。決勝戦も落ち着いて今まで通り操作しましたが、川に散乱するボールを相手チームに持って行かれ、私たちは余り回収する事が出来ませんでした。結局決勝戦で敗れ、準優勝となりました。でも満足できる結果です。この日の夜はお別れパーティーがあり各国で出し物をする事になっていました。歌を歌う国や舞を披露する国など様々ある中、日本は日本の伝統的なお茶を振る舞う催しをしました。茶道の侘び寂びを伝えることは出来ませんでしたが、味わってくれた方々はおいしい(お世辞でしょう)と言ってくれて、遣り甲斐がありました。チームメイトとのプレゼント交換もして今宵の宴は大馬鹿騒ぎで終了しました。

IDC全体のまとめ

初めは言葉の壁に苦労しましたが、段々と自分も相手も各々の力量を把握し、人に合わせて話すようになります。私は中国人の彼と一番よく話していて、私と彼の間でしか通用しないような英語によるコミュニケーションも生まれました。言葉の壁に恐れず、自分に自信を持って活動するのがIDCの極意と言って良いでしょう。そして、異国の地でもその場に順応して慣れることが大切であると思います。各国人の特徴も分かり、全体を通して大変素晴らしい経験をさせていただきました。

上野宏彰 (未来科学部 ロボット・メカトロニクス学科3年)

私は今回のIDCに参加することが決まり、異文化交流を積極的にするという目標を立てました。その際に心配だったことは、7カ国という国の仲間が共通に用いる言語である英語での会話でした。事前に作業で必要な工具の名前や日常会話などを覚えていきましたが、いざ本番を迎えると、自分の思いがうまく英語にできず、チームメイトに伝えられなかったことが多々ありました。最初の2日間は英語で自分の考えを伝えることができない悔しさと、他のメンバーはお互いに意見を共有できている羨ましさが入り混じり、とても苦い思いをしました。しかし、3日目になるとチームメイトが私をフォローするようにやさしい英語に代えてくれたので、初日からの不安は消え、作業に集中することができました。作業では、文化や生活の違いから、「もっとこうすれば…」と思うことが多くありました。そのときに、私にできる範囲でアドバイスをしてあげようと話しかけてかけてみることで、チームメイトだけでない、多くの友達ができました。

思うように作業が進まないことや、動作させてみると思い通りに動かないことがあり、作業は夜の10時までかかることもありました。作業日が終了し、コンテスト当日、自分たちが製作したマシンがうまく動いてくれるかという不安からとても緊張していました。そのとき、チームメイトの一人が、「Don’t be serious. We are the champion!」という言葉をかけてくれ、とても心強い気持ちになったことを覚えています。コンテストのでは順調に勝ち上がり、上海万博会場での決勝トーナメントに出場することができました。決勝トーナメントでは、観客の前で試合をするということで、楽しみな気持ちと不安な気持ちでいっぱいでした。「絶対に優勝してやる!」と思っていましたが、結果は4位でした。結果は満足ではありませんが、結果以上に、これからも交流できる多くの仲間と、製作の内容だけではない異文化交流ができたことは、最高の思い出であり、私の一生の宝物です。今回のIDCで自分の英語力のなさを痛感したので、今後英語の学習の励み、自分の思いをうまく伝えることができるように頑張ります。そして、この経験を今後の自分の人生に活かせるようにこれからの活動に励んでいきたいと思います。

上野写真1 上野写真2
上野写真3 上野写真4
上野写真5 上野写真6
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井上和駿 (未来科学部 ロボット・メカトロニクス学科3年)

チームメイトからいきなり英語で話しかけた。当たり前だし覚悟はしていた事ではあったがやはり最初は戸惑ってしまいました。有名な大学から集まった学生たちともあり、彼らの意見やアイディアを鵜呑みにしてしまう事が多く、なかなか自分の意見口に出す事ができませんでした。本当に思っている事をそのまま伝えることが出来なかったため自信を持って発言することが出来きず,そのためIDCが始まって最初の3日間チームメイトとの意思の疎通がうまくいかずかなりナーバスになっていました。

しかし「このコンテスト以上に海外の学生たちがこんなに一度に集結する場は存在しない。これほどの経験今後一生体験することは出来ない!」という学科長先生の言葉で吹っ切れることが出来ました。その日から思った事を拙い英語と身振りで何とか相手に伝えようとし,自分が本当に良いと思った考えは貫き通しました。チームに貢献しようとがむしゃらに頑張っていたら気がついた時にはチームメイトと仲良くなっていました。一生懸命なところを示せば彼らはわかってくれるし,なにより彼らの友人を大切にしようとする気持ちが本当に強いと感じました。

IDCは持てる技術を駆使してマシンを製作することよりも他国の学生同士のコミュニケーションに重点を置いていると感じた.そのため英語に不安のあった私は彼らと仲良くできるか不安だった.しかしそんな私のつたない英語にも耳を傾けてくれる彼らの対応には本当に助けられたし,上海での生活を充実させる事ができた.そして改めて英語の大切さを実感することが出来きました.

井上写真

後藤淳 (未来科学部 ロボット・メカトロニクス学科3年)

IDCロボコンに参加した私の前には、言語と文化という壁が立ちふさがりました。

第一に言語です。当然のことながら大会参加者との意思疎通はすべて英語で行なわれ、競技会のルールや、製作するロボットのレギュレーション、インストラクターからの連絡事項についてもすべて英語が用いられます。正直なところ、英会話については日本を出発する際には自信がもてるほどの練習はしておらず、ロボットの製作初日には、チームメイトの話している内容が頭の中を素通りしていってしまいました。ロボットの構想についても、会話にほとんど参加できずにチームメイトにまかせっきりのような状態になってしまっていました。「果たしてこのままうまくやっていけるのだろうか」という不安と、機体の構想時にまったく意見を述べられなかったことについての自己嫌悪の中、4日目にして私は体調を崩してしまいました。肉体的にも精神的にも追い込まれる中、私の支えとなってくれたのがチームメイト達でした。アメリカ人のケーティーは、私の英語が未熟であることを悟って、私と一対一で会話する際にはゆっくり話してくれるようになりました。シンガポール人のイーレイは、他のチームメイトが話した事を、ゆっくり、丁寧に、簡潔に、何度も私に言いなおして伝えてくれました。中国人のリオは、私が英語に自信をもてずに発言を取りやめるのを認めずに、内容が伝わるまで何度も真剣に私の話を聞いてくれました。タイ人のノットとは、「お互い英語は苦手みたいだけどがんばろう!」と、共に励ましあいました。彼らの優しさがあったからこそ、母国語以外の言語が主体となっている環境を乗り切れたと感じています。また、現地中国では当然のことながら中国語が飛び交っており、コンビニで買い物をするのにも一苦労でした。ファミリーレストランでは注文の際に店員の方に話しかけられたのですが、何を言われているかまったくわからず、たまたま居合わせた大会参加者のシンガポール人達に助けてもらいました。

言葉の壁を前にして一番強く感じたのが、「もどかしさ」という感情です。大会中は、「自分はこう言いたいんだけれど、英語ではどう伝えればいいんだろう」という場面が何度もありました。単に私の勉強不足という問題もありますが、教科書の上の人物でもなく、TVの中の人物でもなく、実際に自分と対面している相手に対して、他国の言語で自分の意思を伝えることは非常に難しいことなのだと実感しました。

第二に私の前に現れたのは、ものづくりを含めた文化の壁です。ロボットの製作を行なったワークショップ室では、各国の学生が入り混じり作業を行なったのですが、そこでは度々驚かされるようなことばかりでした。その中でも特に気になったのは、他国の学生が、使った工具を元の場所に戻さないということでした。私が今まで育ってきた環境下では、使ったものを元の場所に戻すというのは当たり前のこととして教えられてきました。

「利便性を考えても、使った工具は元の場所に戻すのが当然だ」と考えた私は、他国の学生に対して注意することを考えましたが、「もしかしてこれは文化の押し付けになるのではないか」と考え、英語力に自信がなかったこともあり、結局注意することができませんでした。ものづくりの際の作業法やマナーが、その国の文化、信条に依存するかどうかということは私にはわかりませんが、私が日本人の一代表としてあの場に居合わせた以上、自信を持って日本で学んできたことを行なえばよかったと、あの場は注意しておくべきであったと、今は後悔しています。

IDCロボコンでは初日から苦難の連続でしたが、それ以上に貴重な経験を積めたことに対する充実感で胸がいっぱいです。初めて海外に友人もできました。将来、この経験を十分に生かせるような人間になれるよう日々精進していきたいと思います。

後藤写真1 後藤写真2 後藤写真3
後藤写真4 後藤写真5 後藤写真6
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牧野忠慈 (未来科学部 ロボット・メカトロニクス学科3年)

私は幼いころからものづくりが好きで、よくテレビでロボットコンテストを見て、いつか私も参加してみたいと思っていました。よって、今回のIDCは何としても参加したく、気合を入れて面接には和服を着て臨みました。1回目の面接では落ちてしまいましたが、2回目の面接で合格することが出来、早速、今までのIDCの様子や、どんなロボットが作られていたかなどを調べました。英語は高校生の時に2回ホームステイをしたことがあったのであまり深刻には考えていませんでした。

私のチームは、アメリカ人、韓国人が1人、中国人(1人はブラジル代表)が2人で構成されたチームでした。ディスカッションでは自分のアイデアをロボットに組み込むことが出来、嬉しく思いつつも、ネイティブ以外の人でもアメリカ人と同じスピードで会話をしていることに皆の英会話能力の高さに驚きました。

ロボットを作るにあたって普段(授業では)は一つ一つのパーツの大きさを決めてから、加工の作業に入るのですが、アメリカ人のサマンサに「重要な部分はサイズの変更がないから先に作ろう」と言われ「そういう考え方もあるか・・・」と思いサマンサの計画で作業を行いました。結果的に、その部分は3回ほど作り直すことになり、自分が電機大学で習ったことを活かせず、悔しい思いをしました。私は「あの時、サマンサの意見を受け入れた気でいたが、単に積極性がなかっただけでは?」と後から思い、自分の心の弱さを痛感しました。そのような経験により、作業後半ではより深く話し合うようにし、マシンの完成を目指しました。

残念ながら、入賞をすることはできませんでしたが、作業をしていく中での失敗や喜びは日本での授業では感じることが出来ない何事にも代え難い経験でした。

牧野1 牧野2

フェアレルパーティーで、日本チームは、私が茶道を習っていうこともあり、田島先輩の案でお茶のデモンストレーションをしました。電機大学のメンバーには中国に行く前日に集まってもらって練習をし、お茶道具、茣蓙、和服などを用意しました。中国についてからも東京工科大学のメンバーと合同で練習をしました。私はふるまう自分たちの立場しか考えていなかったのですが、畠山先生にアドバイスを受け、大会が終わり興奮状態の皆の前での発表ということを念頭に置き、全体の流れを考えなおしました。結果、発表は好評で、お抹茶が余り、発表後にもお茶とお菓子をふるまうことが出来ました。IDCとは一見関係の無いような茶道においても多くのことを学ぶことが出来ました。付き合っていただいた日本チームの皆さんにはとても感謝しています。

このたびのIDCでは相手を思う気持ちやマナーは全世界共通であることを学び、自分が経験したこと、学んでいることが世界に対しても通用したことで、自信を持つことが出来ました。いまでも韓国人のキースーとはメールで連絡を取る友達になれました。ロボット製作を通して、ともに様々な経験をし、言語の壁を越えたような魂と魂の会話が出来たのではないかと思います。

牧野3 牧野4
牧野5 牧野6